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2000年代カルチャーを巧みに絡めた少女の解放譚|『##NAME##』【書評・感想】

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2000年代カルチャーに絡めた少女の解放譚|『##NAME##』【書評・感想】

帯に書かれていた、芥川賞候補作の文字に惹かれて手に取った。 

「直木賞じゃないんだ?」という違和感があった。表紙デザインが2000年〜2010年前後の名作ライトノベルを想起させたからだ。

長らく女オタクとして生きてきたので、タイトルの「##NAME##」という文字列にも見覚えがある。帯のあらすじにはやはり、かつてジュニアアイドルだった主人公が、少年漫画の夢小説に傾倒している旨が書かれていた。

 

”夢小説” とは二次創作の形態の一種で、(様々な形式があるが)元作品のキャラクターと二次創作者のオリジナルキャラクターとの恋愛を描いたものが一般的だ。

このオリジナルキャラクターの名前を好きに変換できる点が一番の特徴で、読者は所定のウインドウに名前を入力することで、「自分」を作品世界に投影できる。”##NAME##”は名前変換のためのタグで、元の小説のうち、書き手がタグを入れた箇所が入力名に変換されるシステムになっている。

なるほど、この装丁は相当考えられた作りだな、と感嘆する。

 

本書は2000年代サブカルチャーを絡めて描いた、「自分ではない自分」の生き方を強いられた少女の物語だ。

##NAME##(児玉 雨子|河出書房新社)

光に照らされ君といたあの時間を、ひとは”闇”と呼ぶ――。かつてジュニアアイドルの活動をしていた雪那。少年漫画の夢小説にハマり、名前を空欄のまま読んでいる。第169回芥川賞候補作 -河出書房新社 作品説明文より引用


この物語は、以下のシーンから始まる。

ハウススタジオの二階にある一室で、美砂乃ちゃんがニップレスシールを私に手渡しながら「てか台形の公式知ってる?」と訊いてきた。

いきなり冒頭でどきりとさせられる。

この一文のアンバランスさ。小学生であることと、薄着の撮影が控えていることが窺い知れる。更衣室を覗き見てしまったような居た堪れなさ。


主人公である石田雪那は小学生アイドルとして活動している。大手プロダクションではなく小さな事務所に所属する、売れないチャイドル。「レッスンシュート」と言われるスタジオ撮影を中心とした下積み生活を送っている。

父親は単身赴任で母と二人暮らし。母親は料理もろくにせず、食事は惣菜パンやインスタント、あるいは雪那自身が買ってくる惣菜。洗い物も雪那の役目だ。せめてもの救いは母親が学業に否定的ではないことだろうか。

そんな生活で、友人といえるのは同じ事務所で活動している美砂乃だけ。もっとも美砂乃は事務所の売れっ子なので立場は違うが、近い家庭環境とアイドル活動の共通点から仲良くなって、「ゆき」と呼ばれるようになる。

交錯する時系列と立ち位置|ジュニアアイドル活動

物語は小学生時代の2006年から始まり、中学時代、そして大学、就活シーズンを控えた2017年、2018年の出来事が散発的に描かれる。

雪那は本名をひらがなに換えた「石田せつな」として芸能活動を行っていた。深く考えずにつけた芸名が、長く彼女の人生に付き纏ってくることになる。いわゆる「デジタルタトゥー」だ。この言葉が一般的になったのはここ10年ほどのことだろうか。

インターネットに一度公開された情報は完全に消し去ることが難しく、特にアングラなもの、イリーガルなものはすぐに拡散され長期に渡って残り続ける。それは罪人の証のように、入れ墨に例えられた。

合法とはいえ、アイドルとして際どい写真を撮られていた雪那も例に漏れず、中学では周囲から悪意の目線に晒される。アイドル活動を辞めたいと思い続けても、母親に求められる娘像はそうではない。

それでもまだ、「芸能活動」という外面を保っている間は良かった。ターニングポイントになるのは2017年の児童ポルノ禁止法の改正だ。「子供アイドルの下積み」だった過去の仕事が、一転して「性的搾取の被害」に該当する行為になってしまう。

直後におきた様々な状況と就職への影響から、雪那は最後にある選択をする。

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夢小説と雪那

雪那が夢小説にハマったのは中学時代からだ。名前変換機能をあえて使用せず、ヒロインの名前を 「##NAME##」 としたまま読む。

自分の名前を使用せず読む、というのは夢小説の楽しみ方としてはよくあることだと思う。私自身、変換機能を使わず二次創作者のつけたデフォルトネーム(だいたいの作品では無変換時の名前が設定されている)で読むことが多かった。

しかし、雪那が変換機能を使わないのは、合わない枠に無理やり自分を当てはめるような違和感からだ。

西欧風の名前を持ったキャラクターたちの物語に、無理やり私を捩じ込んだようでいつまでも馴染まない。それでも最後まで読み切って物語の一部になった気分でいると、後書きのページで「雪那さん、ここまで読んで下さりありがとうございました!」と、それまで私を甘やかした物語がふっと他人の顔で深々とお辞儀をして、さぁ早くここから出てゆけ、と突き放す。-p53 

あえて 「##NAME##」 という無味乾燥なタグのまま描写されるのは意図的なものだろう。「自分ではない誰か」の物語として読まないと楽しめない。

「自分の名前を着た誰か」の物語も、その物語から勝手に梯子を外されるのも、現実で嫌気がさしているからだ。雪那自身にその自覚がなかったとしても。

 ##NAME##から”自分”へ踏み出すラスト

物語の最後に雪那がした2つの選択は、ひとつはとても大きく、もうひとつは些細なことだ。
母親や周囲に押し付けられたパーソナリティから解放され、自分の意思で生きていく覚悟の現れ。

ずっと抱いていた違和感・怒りを受け入れた彼女は、ただひとり同じ境遇だった友達である美砂乃以外の誰にも立ち入らせなかった”自分”を、ようやく出せるようになった。その門出を祝いたい。

 

本書は2000年代カルチャーを巧みに絡めた少女の解放譚だ。初めは「なんで芥川賞候補?」と思ったが、なるほどこれは純文学だった。

デジタルタトゥー、性的消費、子供に自分の理想を押し付ける、いわゆる毒親。本書には「現代の闇」と括られがちなキーワードが多く登場するが、部外者が安っぽく「闇」などというのは相応しくないだろう。それこそ、当事者に役割を押し付ける呪いであるのだから。

 

para-a.net

 

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