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科学に誠実な珠玉SF|火星の人【書評・感想】

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科学に誠実な珠玉SF|火星の人【書評・感想】

 

そういえば、去年(2022年)の12月頃、火星が地球に最接近したというニュースを目にした。数年前にも"大接近"とかで似たような話題を耳にした気がする。

調べてみると、どうやら公転周期の関係で火星と地球は2年に1回くらいのペースで接近しているらしい。地球と火星は公転の軌道が違うので、タイミングによって再接近時の距離が変わる。計算上一番近くなる(大接近)時と遠い時では倍程度距離が変わるらしい。

……と、一通り調べて納得顔をしてはみたが、私が火星について知っていることはほとんどない。赤い砂に覆われているらしい。生命の痕跡が発見されているらしい。探査機オポチュニティ。そのくらいだ。最も近い惑星で、夜空で赤っぽく輝いていると言われても、私には他の星と全く見分けがつかない。

 

ではなぜ急に火星に思い馳せ始めたかというと、近代SFの名作「火星の人」を読んだからだ。

 

ハリウッド映画「オデッセイ」の原作、と言うとピンとくるかもしれない。不幸な事故で火星に取り残されてしまった宇宙飛行士が、空気も食料も限られた環境でサバイバルをする小説だ。

SFとしてはかなり実直な作品で、いわゆる超科学と呼ばれるオーバーテクノロジーは登場しない。主人公のマークは、ただただ現代科学と機転、奇跡のような幸運を積み上げて生存を試みる。

私はどちらかというと超科学要素多めのSFが好きなのだけれど(宇宙船やコロニー、ナノマシン技術とか)、本作の科学に対する真摯さとハリウッド的なカタルシスは、正直とても面白かった。

『火星の人(早川書房)』

有人火星探査が開始されて3度目のミッションは、猛烈な砂嵐によりわずか6日目にして中止を余儀なくされた。だが、不運はそれだけで終わらない。火星を離脱する寸前、折れたアンテナがクルーのマーク・ワトニーを直撃、彼は砂嵐のなかへと姿を消した。

ところが――。奇跡的にマークは生きていた!? 不毛の惑星に一人残された彼は限られた食料・物資、自らの技術・知識を駆使して生き延びていく。映画「オデッセイ」原作。-Hayakawa Online 商品詳細より


どうやら元々は個人サイトで公開されていた小説だったらしいが、良くも悪くも「ハリウッド映画化してヒットするのは当然」のポテンシャルを持った作品だ。

主人公マークはNASAの宇宙飛行士で、本作はハリウッド映画「オデッセイ」の原作である。ついでに偏見込みで言うと、著者はアメリカ人。……初見でも、この背景情報で確実に予想できることがあるだろう。

そう。主人公は次々ドラマチックな苦難に見舞われる。それは国家レベルの一大事に発展する。けれど、仲間たちの助けを受けて困難を乗り越えていき、最後には予定調和のハッピーエンド。壮大な音楽と共に”Fin.”。

いわゆる「ハリウッド的」と揶揄されがちな王道展開、それを大きく外れることなく本作のストーリーは繰り広げられる。もちろん、あまりにも出来すぎている展開であえての「ハズし」をしてくるトリッキーさはあるが、良くも悪くも特徴的なので、合わない人には合わない作品であろうとも予想される。

私も正直、コッテコテのハリウッド的シーンだなぁ。と思うことが何度かあった。

しかし本作は、そこを飛び越えて面白さがやってくる。

 

ストーリー展開の上手さ、キャラクターの軽妙さもあるけれど、それだけでは「ベタな展開への食傷感」という壁を貫通できないだろう。

本作を唯一無二の名作たらしめている箇所がある。それが、現代科学に対する真摯さと敬意なのではないだろうか。

 

科学に対して誠実な小説

SFでは、しばしば現代の科学を大きく超越した技術(超科学)が発展している例がある。ガンダムシリーズなどをなどはいい例で、機体の設計や人々の生活基盤など、現代の感覚ではファンタジーであったり、机上の空論ともいえる技術をもとに成り立っている。

こう言ったフィクションの面を強調した物語もSFの大きな魅力ではあるのだけれど、本作ではそういった超科学は身を潜めている。物語の根幹を担うのはサイエンスの面だ。

極限状況にあるマークの身を守ってくれるのは、パワードスーツでも未知の耐真空性植物でもなく、リアルの世界と地続きにある現代科学、もっと言うと、古典的でベーシックな科学技術である。

例えば、水素を燃やして水を作る。微生物の存在しない火星の無機質な土を、自作の堆肥と混ぜて土壌改良する。星の位置で自分の目指す方角を知る。長い歴史で人類が積み重ねてきた基礎的な科学を唯一の武器に、マークは火星での生活を整えていく。

発生するトラブルのリアルさ

特に序盤、食い入るように読んでしまったのはヒドラジンから水を得るシーンだ。

以下ネタバレを含むため、気になる方は"【ここまで】"まで読み飛ばしていただけると幸いだ。

 

-----【ここから】-----

生き延びるためには食料が足りない、食料を作ろうにも水がない、その水をどう持ってくるか、というときに白羽の矢が立ったのが、ロケットエンジンに残っていたヒドラジンだった。

ヒドラジンはロケットの推進剤にも使われる、非常に反応性の高い物質である。化学式はN2H4。このヒドラジンを接触分解によってN2、H2に分離し、H2を燃焼させて水を得るという、自殺行為に近いハイリスクな試みが、作中でいきなり行われる。

一連のシーンが妙にリアルなのがたまらない。

袋の中で少しずつヒドラジンを分解し、発生したH2を順次燃やしていくだけど、とうぜん間に合わせの器具でシンプルすんなり反応が終わる訳もない。完全に燃焼しきれず、取りこぼした水素が拠点じゅうに充満してしまう。文字通り、静電気レベルで大爆発が起こる一触即発の状況に陥る。

その窮地を脱するため、今度は拠点の空気調節機に細工をして酸素をすっかり抜いてしまう。燃えさえしなければひとまずは安心。手持ちの酸素ボンベを使って少しずつ水素を燃焼し減らしてやればいい……と安心した矢先に、自分の吐く息に含まれる酸素を見落としたことにより爆発がおきる

-----【ここまで】-----

 

ベーシックな化学を活かした解決策、からのケアレスミスによるトラブル。

ハラハラドキドキの連続でページを捲る手を止めさせない。

またこの「上手くいって油断した先にミスをやらかす」というのが実験トラブルとして本当にリアルなのだ。私自身も化学畑にいたので多少の経験があるのだが、実際、大事故につながるのはこういうポカミスが発端になる。

少し古い本だが、世界的な大事故の原因を分析する内容の『巨大事故の時代(弘文堂)』でも、些細な見落としから起きた事故が多いことがわかる。

ぱっと見怪しいが割としっかりした本

物語であっても、致命的なトラブルを引き起こすのは人の悪意ではなく些細なミスだ。

この図式は序盤・中盤・終盤とふんだんに取り入れられており、一貫している。逆に人為的な足の引っ張り合いはおこらないので、その点でストレスを受けることはないだろう。作者の、人間に対する信頼が感じられるストーリー運びといえるかもしれない。

人間讃歌と科学へのリスペクトを感じられる作品

『火星の人』はリアリティのある科学描写とドラマチックな展開がとても面白い小説だった。

極限状態でのサバイバルものなので雰囲気が重くなりがちかと思いきや、マークの軽妙なキャラクターがいい感じに中和している。深読みすればけっこうギリギリの精神状態のようにも読み取れるが(カフェインを常飲している描写や、麻薬成分の痛み止めを使う描写がよく出てくる)、ウィットに富んだ言い回しやジョークまじりの地の文はそんな様子を一切悟らせない。

SFに馴染みのない人でも、気軽に読める作品だと思う。

良くも悪くもハリウッド感が強い作品なので、好みは分かれると思うが、興味があればぜひ手に取ってみてほしい。

ちなみに、原題は「the marthian」。直訳で火星人、となりそうなところを「火星の人」としたのはすごくいい翻訳だと思う。