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消費世界に引き摺り出された作り手の苦悩|『うるさいこの音の全部』

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消費された先にたどり着くもの|『うるさいこの音の全部』


人間、大なり小なり何かのキャラクターを演じている。

それは会社の中の役職かもしれないし、SNSのハンドルネームかもしれないし、友人の中での役回りかもしれないが、それゆえに「この立ち位置ならこういう言動をした方が (/しない方が) いいだろうな」というキャラクター性由来の制約を受け、内側にある”自分”と乖離してしまうことは少なくない。

私自身、職場で趣味の話はしづらいしSNSの趣味アカウントで日常の愚痴は出さないことにしている。こういった記事を書くときには極力”自分”ではない書き手”アオミ ソウ”としての文章を書いているつもりだ。


では、その垣根が曖昧になっていった先に待つのは何かというシナリオを扱ったのが高瀬 隼子氏の小説『うるさいこの音の全部』だ。

主人公はデビューを果たしたばかりの小説家、早見有日。早見は本名の長井朝陽としてゲームセンターで働いているが、小説を出版していることが知られてしまい、周囲との関係が変化し始める。同僚、友人、関わりのない職場の上層部や地元の市長、家族までもから”小説家先生”としての対応やあり方を求められる一方、”作家”としてのインタビューでは、作品ではなく”自分”のパーソナリティばかりを深掘りされる。次第に両者の境界がわからなくなっていく描写はゾッとするほどに精細だ。

うるさいこの音の全部|高瀬 隼子(文藝春秋)

ゲームセンターで働く長井朝陽の日常は、「早見有日」のペンネームで書いた小説が文学賞を受賞し出版されてから軋みはじめる。兼業作家であることが職場にバレて周囲の朝陽への接し方が微妙に変化し、それとともに執筆中の小説と現実の境界があいまいになっていき……

職場や友人関係における繊細な心の動きを描く筆致がさえわたるサスペンスフルな表題作に、早見有日が芥川賞を受賞してからの顛末を描く「明日、ここは静か」を併録。 - 作品紹介から引用

本作は時系列の連続した2作の中編からなる。

表題作の『うるさいこの音の全部』は早見有日が作家デビューしてから、2作目の小説を書き上げるまでの顛末。『明日、ここは静か』は、2作目の小説が芥川賞を受賞した後のストーリーだ。


『うるさいこの音の全部』では、早見有日の小説がテレビて取り上げられたのをきっかけに、ゲームセンターで働く長井朝陽の生活が一変する。

本作の”ミーハーで浅はかな、普通の人たち”の描きかたは非常に巧みだ。小説を出版した段階でのリアクションは薄いのに、テレビで取り上げられた後から長井朝陽をあからさまに持て囃す。日常の会話を「ネタとして使っていいよ」なんて浅はかな提案をするし、作品中の一節をあたかも作者自身の経験や思想のように取り上げる。

そんな無責任な搾取は職場だけならまだしも、次第に家族や友人からも行われ、周囲の人間すべてが小説家・早見有日というフィルター越しに朝陽を見つめてくるようになるのだ。


本章では早見が書いている2作目の小説が作中作として挟まれており、早見有日の思考の変遷を執筆メモから窺い知ることができる。序盤は真っ当な推敲の軌跡だったのに、中盤からはあきらかに現実の出来事に引っ張られており、舞台を自身の働くゲームセンターにしてみたり、周囲に言われたエピソードを盛り込んでみたりと迷走が著しい。かと思えば夜中に周囲に影響された文章を消して涙を流す。

朝陽に興味を持つ人たちは、でも、こんなことには興味を示さない。それならば小説にだけ興味を持ってくれればいい、作品だけを読んでくれたら良いのに、作者のことも見せろ教えろという、くせに、朝陽が夜中に泣きながら自分の書いた小説を消しているなどということには興味を持たない。 -p143

朝陽の内面を置き去りにした周囲からの消費は2作目の芥川賞受賞とともに加速していく。

おそらく自分のことがうっすらと好きじゃない朝陽はそれに耐えられず、好奇の目に応えうる「小説家としての早見有日」を演じ始め、現実の朝陽とどんどん乖離していってしまう。

第2章『明日、ここは静か』の終盤、インタビュー校正をしているシーンが極致だ。

取材原稿のゲラに、太字で「本当はこう考えているのに」という朝陽の内情が追記され、懺悔のような独白が挟まれる。こっちは早見としての回答、この辺は朝陽の考え。素直に答えたいけれど、曖昧な回答で相手に困った顔をされるのが一番嫌だから、作家らしいストーリーとして形成し、盛った内容を話してしまう。「嘘をつかないようにしよう」と毎度心してインタビューに挑むけど、終わってみれば嘘まみれだ。 

求められるものを差し出すあまり嘘を重ね、職場を離れ、最後には明らかに「もう戻れない」ところにまで自分を切り売りしてしまっているのが辛い。

『明日、ここは静か』というタイトルが示唆する通り、この後は破滅に向かっていくのが想像に難くない。

 

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本作は「作り手の消費」の話なのだと感じた。

”ミーハーで浅はかな、普通の人たち”は、作品を消費した後は作り手にもレッテルを貼って軽薄に話題に上げ、話の種として貪り尽くす。話題のタレントや漫画の作者などを対象に、SNSでもよく見る光景だ。

繊細な感性の持ち主であるほど角を立てないように振る舞っては消費されて食い尽くされていく。八方美人の成れの果てだ。何を受け入れて何を拒むか、その線引きが消費世界に引き摺り出された作り手には必要なのかもしれない。